今、「初めて出会った全く知らない人と、イチから友情を築いて友達を作ってください」と言われたら、あなたは自信を持って「できる」と言えるだろうか。
筆者は無理だ。
気が付けば、友達の作り方がわからなくなっていて、そのまま大人になっていた。
今いる友人は5人以下だが、みんな学生時代に出会ったし、よくわからないまま仲良くなった人ばかりなので友達作りのスキルといえるような再現性は無い。社会人になってから出来た友人はゼロである。
これは、そんな友達の作り方がわからなくなった経験の話だ。
子供の頃にどうやって友達を作っていたか思い出せない

親を介することなく、初めて自力で友達を作ったのは小学生の頃だったと記憶している。これといって孤立した記憶は無く、学校でも放課後も友達と遊ぶことはそれなりにあった。
しかし、どうやって人と仲良くなっていたのかが思い出せない。人の顔と名前を憶えるのが苦手なのでクラスメイトを記憶するのは遅かった気がするが、気が付けば話す人がいて、遊ぶ人がいて、普通に学校生活を送っていた。
一方で、本を読むなどやりたい事があるときは、そこが学校であろうと周囲から離れて一人で過ごすこともいとわなかった。それで教師や親から心配されたこともあったが意に介していなかったし、そんな友達と遊ぶ時間が少なくなった時も親しい友人がゼロなわけではなかった。
周囲に受け入れられていたのか、それとも変人扱いされながらも表面上は関わってくれていたのか、真相は今となってはわからない。ただ、問題行動を起こすわけではないので、筆者の人間性を指摘する人は居なかった。
不登校になって人間関係から離れた

筆者は、中学校の途中で不登校になった。
本筋から外れるので詳細は触れないが、理由は、校則だらけ(おまけに無意味なものも多い)で管理されることが多い環境に嫌気がさしたり、思春期以降で変化した人との関わり方が全く分からなったことだ。
ようは、学校生活に全くなじめなかった。
※後からわかったことだが、筆者は発達障害のなかでもソーシャルスキルに課題が生じることが多いASD(自閉症スペクトラム)を持っている。しかし、当時は誰にも気づかれておらず、当然ながら療育等の支援も皆無だった。
後にかかったメンタルクリニックの主治医には、「じゆとりさんが自力で中学校の環境を乗り切るのは相当困難だったはず」とまで言わたので、不登校にはなるべくしてなったというか、回避するのは難しかったと考えている。
不登校になると、クラスという、子供が強制的に人間関係を築くことを求められる環境から離れることになる。したがって、家にいたしばらくの期間で人付き合いは皆無になり、人間関係から一旦完全に離れることとなった。
ドロップアウトした先で人間関係の悩みが皆無の環境を見つけるが...

不登校になった後の残りの中学生活は少人数のフリースクールで過ごした。
フリースクールに通っている人の年齢はバラバラで、下は小学生から上は大人までいる。人間性も多種多様だが、皆、何かしらの理由で学校に行かなくなったという共通点があることが多いこともあってか、どのような人間性にも寛容な空気があることが多く、筆者の通ったところもそうだった。
そんな心理的安全性が保障されている環境だったので、フリースクールに通っていた当時は自然と周囲と関われていた(※今思えば、少なからず変人だと思われていたとは思うが)。
一方で、他人と自然に関わり、人間関係のトラブルや難しさを経験することもなかった。人との関わり方や素行で直したほうがよいことを丁寧に指摘してくれる先生が多かったので一定の社会性を磨くことはできたが、中学校で感じた人間関係の複雑怪奇な部分の解像度はあまり上がらないままだったのも事実だ。
中学を卒業した後はフリースクールを出たが、全日制ではなく通信制高校に進学した。
通信制高校は通学形態が多種多様であるため雰囲気は学校によって大きく異なるが、筆者の通った通信制高校のコースは授業や通学日数を自分で選択するシステムだった。そのため、クラスメイトはホームルームでしか揃って顔を合わせることがない存在となった。
当然ながら絵にかいたような高校生の青春を楽しむことは難しい環境なわけだが、当時の筆者は中学時代の人の刺激が多すぎる環境に疲れ果てていた。そこで、高校の環境を最大限活用する形でほとんど誰とも関わらずに高校時代を過ごしたため、ここでも人間関係の悩みは皆無だった。
そんなこんなで、中学校をドロップアウトしてから高校を卒業するまでのほぼ5年くらい、友達を意識して作ろうとしたり、周囲とうまくやろうなどと考えることなく生きることとなった。
気がついたら人との関わり方がわからなくなっていた

問題に気づいたというか直面したのは大学生になった時だ。
当時の自分は大学進学を機に上京して新生活を始めたので、必然的に地元の友人と会う機会は減った。しかし、人生の夏休みと言われる大学生活を謳歌しないのはもったいない。だから、大学で他愛のない話ができるような友達か知り合いの1人でも作ろうかと思っていた。
だが、いざ人と関わろうとしてみると、関わり方が全くわからないことに気がついたのだ。
こういうと、「友達は作ろうとしてできるもんじゃない」という反論が飛んできそうだが、そもそもの話として、男女問わず人と出会い、話しをして、知らない他人以上の親密さを持った関係になるという流れをどう実践すれば良いのかが全くイメージできなかった。
一応、入学式やサークルの勧誘、必修科目の授業といった大学生ならだれもが経験するイベントで知り合いはできた。しかし、何を話してよいのか、どう関わったらよいのかが全くわからない。当然ながら、全く距離が縮まらないまま疎遠になった。
サークルも旅行系のものに一応入会したものの、そもそも活動が少ないし、一人旅の方が好きだったのですぐに幽霊部員と化した。
そうしているうちに今度はコロナ渦に突入し、授業はほぼ全部オンライン授業で自宅に引きこもる毎日になった。結局、大学で友達ができたのはゼミが始まってからである。
幸いにも、ゼミでできた友達と長期インターン先の同期とは親友といえる間柄になったし、数少ない地元の友人とも今でも仲良しなので、結果として大学でも友達はできたわけだし今もいる。また、一応、何度かゼミの飲み会もあったので、安酒を飲みながら大人数でワイワイ賑やかに過ごすという経験もできた。
したがって、自分の大学生活を後悔しているかと言われれば特にしていない。しかし、「広く浅く友人や知り合いを作る技術があれば、もっと知らない世界を知れたかもしれない」という考えは頭のどこかに残っていて完全には捨てきれない。
隣の芝生は青く見えるというわけだ。
人付き合いを学ぼうとしなかった理由|そもそも孤独が苦ではなく他人を求めない性格だった

ちなみに、多少なりとも人と関わる気があったにも関わらず、大学時代に人間関係を学ぶ努力をしなかったのは、人付き合いのモチベーションが保てなかったことが大きい。
人が嫌いなわけではないし、ましてや憎んでいるわけでもない。事実、ゼミの友達とはよく食事に行ったし、たまには遠出をしたり、互いの部屋を行き来して映画を見たりなどもした。また、大学でもよく一緒に自習室に行ってレポートを片付けたりもした。インターン先の仲間とも酒を飲んだ。
それらはもちろん、楽しかった思い出だ。
しかし、筆者は人間性の根っこの部分で、一人で居ることが大好きで自分ひとりでいくらでも楽しく過ごせてしまい他人を求めることが少ない性格だった。気心の知れた友人と会うことはもちろん楽しめるが、基本的に何をするにも一人で計画して実行してしまうので、何かをするために人を誘おうと考えることも皆無だし、暇だから誰かと会おうという気になることも無かったのだ。
そんなわけで、広く浅い交友関係とは無縁なまま、4年間の大学生活をエンジョイして卒業した。この、人を求めない人間性は今も変わっていない。
今思えばどこかで他人の価値観に支配されていた

今思うと、大学生の時の自分は、理性で他人と一緒にいることの素晴らしさを理解している一方、どこかで「友人は多ければ多い方がよい」「他人とはとにかく積極的に関わるべき」「一人で楽しく過ごすことは難しい」という世間の価値観に囚われていた。
だから、「友達は作らなくてはならない」と心のどこかで思っていた。実際のところは、友達がいることで幸せを感じられる人間である一方、そのために無理をすれば疲弊してしまう。それが素の自分の姿だったのだが。
これに気付いた時、また少し自分を認められた気がした。
今も人付き合いがわからないまま|会社の同僚との関わり方は謎

現在、筆者は大学を無事に卒業し、現在は社会人をしている。ただ、社会人になってみても、人との関わり方は全く分からないままだ。
会社の同期とはそれなりに仲良くしている。上司や、先輩や後輩といった上下のつながりは無いわけではないが薄い。
なんというか、周囲は時には一緒にランチに行ったり雑談をしたりとある程度和気あいあいとやっている人が多数派であるが、自分は必要な時にだけコミュニケーションをとるといった関わり具合である(※自分のような人ももちろんいる)。
自分としては、逆に皆、なぜそんなに自然と人と関われるのか不思議だ。同僚たちのことは嫌いではないし、仲良くしたいという気がゼロなわけではない。しかし、そのために気を使ったり頭を使ったり時間を割いたりといったことをするモチベーションが全く出ないのだ。
上司や同僚は尊敬できる人が多いので恵まれているとは思う。しかし、それでも仕事以外で関わりたいかと言われれば遠慮したいというのが本音なので、これも仕方がない。
というわけで、休日は1人で過ごすことが大半だ。
休みの日は日帰りを含む旅行をしたり、一人で酒を飲みに行くなど外で過ごすこともある。家でもゲームをしたり、ハマったコンテンツ(マンガ/アニメ)を楽しんだり、家飲みをしたりなど、なにかと楽しみがある。今は旅行用の車が欲しくて、それを買うためにライフプランを練ったりもしている。
それで満足している自分がいる。
これからも狭く深い交友関係を大切に生きていくのだろう

社会人になったことで人間関係がゼロになったわけではない。たまに会う友人は何人かいる(片手で数えるレベルだが)。
一方で、社会人になってから新しくできた友人はゼロだ。知人レベルだと、気に入ったバーのバーテンダーさんと顔なじみになったりしたのでゼロではないが、友達というものは増えていない。
しかし、さみしいという感情があるかと言われれば皆無だ。気心の知れた友人は大好きだが、それでもずっと一緒に居れば疲れを憶えてしまう。だから、大好きな人でもたまに会うくらいがちょうどいい。
自分はきっと、これからも狭く深い交友関係を大切にしながら生きていくのだろう。今はまだ20代だから、先のことはわからないが、自分の気質が大きく変わることはあまり想像できない。
でも、それでいい。本気で変わりたいならよいけれど、世間体を気にして無理に自分を変えようとするのはしんどい。無理せず自然に笑える状態でいるのが一番だ。
これからも自分の価値観を大切に生きて行きたいと思う。意固地になるのではなく、他人の考えで良いと思ったものは取り入れる。でも、他人の考えが絶対的に正しい、こうあるべきだと支配されはしない。
迷うこともたくさんあるだろうが、自分の足で、思考を失わずに歩いていこう。ありきたりだけど、油断すると見失いそうな考えを大切にしている。